園主ごあいさつ

こんにちは。
葉っピイ♪向島園園主 向島和詞(むこうじま かずと)です。

この度は、数ある中から当園をお選びいただき、誠にありがとうございます。
また、いつもご愛顧して頂いているお客様には、御愛飲頂き感謝しております。
ありがとうございます。

僕がお茶の栽培を始めてから、早15年が過ぎ去りました。その間、お茶の 自園・自製・販売という一貫した形で今日まで続けてきました。特に広告を出すわけでもなく、お客様の口コミなどに支えられ、時にはこだわりのお客様からご意見を頂き、それによって僕も成長してきました。皆様には大変感謝いたしております。この場を借りて、お礼申し上げます。

葉っピイ向島園 園主 向島和詞

今では様々な方が有機栽培に取り組み、それぞれの農法を確立しています。
就農当初、何もわからず試行錯誤の日々を送っていたことが懐かしく感じます。

そんな中、ずっと変わらず栽培当初から守り続けてきたものがあります。それは、お茶の側に立って物事を見る事です。お茶を自分と同じ生命体としてとらえ、「人対お茶」では無く、「生対生」という考え方が、強く心に響きます。
今振り返ってみても、無農薬・無化学肥料の有機栽培をするにあたって、一番大切な事であり、それこそが葉っピイ向島園のポリシーだと確信しております。そしてそれは、技術や経験を培ってきた今もなお、最も大切にしている想いです。この想いこそが、何の技術もなかった自分が、今日まで続けて来られたエネルギーです。

最後になりますが、前述のとおり、お茶の栽培を始めてから15年が経ちました。この15年という歳月は、お茶の栽培から見ますとたった15回の経験にしか過ぎません。言い換えれば、15回しかお茶の栽培をしていないのです。 自然というものは奥深く、今でも新しい事の連続です。常に多くの事を教えてくれます。僕はそんな自然界に、変わらぬ想いを胸に、今後も応えていきたいと思います。
僕のお茶の世界への探求はまだまだ続きます。目指す究極のお茶は、単なる美味しいだけではなく、深い生命の味わいが感じられるものにしたいと思っています。

 

「葉っぱの向こうに宇宙を見たい。」

 

宇宙とは、感動と喜びの爆発物と考えます。

 

皆さんにご賞味いただけたら幸いです。

当園のお茶づくり

葉っピイ向島園は、完全有機栽培(無農薬・無化学肥料)で、お茶の栽培・製造・販売をさせて頂いております。
現在の農業界では、化学肥料、農薬使用による栽培方法が大部分を占めております。
では、何故、無農薬・無化学肥料という栽培方法を取っているのでしょうか。
一人の人間が生きるには、どれだけの物が介在しているのでしょうか? まず、生きてゆくのには食べ物が必要です。そして衣類・住宅等・・・ 。 ただ一人の人間が生きてゆくだけでとても沢山の物との関わりを持たなければなりません。ではその物の存在、維持というものはどのように行われているのでしょうか。

今、この地球上にはとても多くの生物(植物・動物・人間も含む)が生存しています。
そんな中、たとえば、植物・動物の関係。植物は動物の呼吸により出された二酸化炭素を吸収して生命を維持しております。 又、動物は植物の出した酸素により呼吸し、生きております。

現実的には、地上にあるものすべて一つ一つが自然の仕組みの中では掛け替えのない役割を担っているのではないのでしょうか。 確かに農薬・化学肥料はある面から見ればとても妥当な方法だと思われます。 しかし、生命の次元で観た場合には大きな輪としてつながっているそれぞれの命の流れを途中で絶ち切る事になるのです。

そしてそれがどのような結果を産み出すのでしょうか?
人間は自分の体の調子が悪くなれば、自分で悪い条件を取り除き、健康な体に戻そうと努力します。
でも、地球上でそのような事ができるのは人間だけなのです。
山の木々が健康を害するような環境になってきたから、もっと条件の良い場所に移ろうと思っても、決して出来る訳ではありません。 人間以外の生物の生存は、ある意味で総て人間に委ねられているのです。 同じ地球を構成する生きものなのに、「何をしてもかまわない」
正しさの基準を人間中心に定めて良いものなのでしょうか?

忘れている生命の一体感

茶摘み籠

ある本に、次のような話が載っていました。
「わたしは沖縄の先島と呼ばれる離島で、しばらく生活していて島の人たちが持っている自然観というものを学びました。 これは、もしかしたら、今日の社会のひずみを正すカギになるのではないかと思える自然観です。 それはひと言でいうと、生命の一体感ということです。 生命というのはバラバラに成立しているものではなくて一体のものとしてあるのだという考え方です。 ある時、わたしはフィリピンの、ミンドロ島付近に散在している島へ行きました。 文明といえば、携帯ラジオがあるくらいで、むろん電気もないところです。わたしたちが行くと、日本人はエビやカニが好きだということを知っていて、海に潜ってイシガニというのをとってきてくれた。 それから、ボイルするために台所へ行ったのですが、すぐに帰ってきて『たいへん申しわけないが、今晩はカニをごちそうできない。 このカニは、今抱卵しているので海に帰してやる』と言う。 それを聞いたとき、わたしたちはまともに顔を上げることができなかった。わたしたちは、こういう人たちが暮らす海に、近代的な装備の船団を送り込んで、魚やカニをねこそぎとってしまう。 わたし自身が漁をするわけではないが、日本人の一人として平気でエビやカニを食べている そう思うと、恥ずかしくてとても顔を上げられなかったのです。 同時に教育にかかわってきた人間の一人として、いったい教育とはなんだろうと思わず考え込んでしまった。 日本人といえば世界でも一、二を争うほどの教育を受けてきた民族だろうと思う。一方、イシガニを海へ帰してやった人は、おそらくわたしたちがいうところの義務教育すら受けていないと思われる人たちです。 ところがその彼らは、生命はかけがえのないものだというきわめてあたりまえの思想のなかで生きている。 生命の一体感ということを非常にたいせつにしている。 一方、文明の恩恵を受け、教育も十分にいき届いているはずのわたしたちのなかには、そうした考えがまったくといっていいほどない。 わたしは、非常に暗い気持ちになりました。」(家の光1998年12月号より)

視点をずらして観ることで、いままで観えなかったものが観えてくる。 本当に大切だったものはなんだったのでしょうか?
今、私達に求められているものは、命の次元で物事を観てゆくことなのではないでしょうか。 そして、生あるもの総ては、単独で生存出来ているのでは無く、みな一つの輪としてつながっていることを思いだし、今まで、私達人間が断ち切って来た輪を、元の状態に戻すことが、なによりも大切なことではないのでしょうか?

昭和57年より無農薬・無化学肥料による完全有機栽培に取り組んできました。
最初の頃は農薬や化学肥料の影響で茶樹の生命力も弱く、ほとんど収穫することが出来ませんでした。
やっと以前の収穫量に戻ったのは6年目の事でした。
お茶の葉一枚一枚の生命力を十分引き出し、皆様にお茶を通して自然からのメッセージをお届けできたらと願っています。

尚、大切に収穫したお茶はびく石山の麓から汲み上げた清水で蒸し、心をこめて仕上げ、お届けさせて頂いております。

感謝をするお茶の葉

感謝をするお茶の葉